ル メイヨール美術館について
ベルギーの画家、IPO・ジャン・ル・メイヨール・ド・メルプ(1880-1958年)が バリに来たのは1932年のこと。 デンパサール郊外に滞在中、有名なレゴンダンサーであったニ・ポロックと出会い、 彼女をモデルにした絵を描き始める。 まもなくふたりは恋に落ち、1935年に結婚。 新郎55歳、新婦15歳。 結婚後、ふたりはサヌールに土地を借り、家を建てる。 ル・メイヨールはその家を飾るために、 島中からアンティークの石彫りと木彫りを集めた。 1958年、ル・メイヨールは死去。 その際、ル・メイヨールはインドネシア政府に 家を美術館にしてほしいと要請し、寄贈した。 妻、ニ・ポロックは1985年に亡くなるまで、この家(美術館)を守り続けた。 ル・メイヨールという画家のことを何も知らず、 ふらりとこの美術館に立ち寄ったのはもう10年以上前のこと。 観た絵や写真のことなどは忘れてしまったけれど、 かつてそこに流れていた豊かな時間を感じて、 なんだか妙に安らいだ気持ちになったことを憶えています。 ヴィシュヌワルダナ王 ランガウニは即位して、シンガサリ王となり、尊称は、シュリー・株・ヴィシュヌワルダナと呼ばれた。すなわちヴシュヌワルダナ王(位1248年~68年)である。ヴシュヌワルダナは、いとこのマヒサ・チャンバカと共同して統治をおこなった。マヒサ・チャンバカには、ナラシンガムルティの尊称が贈られ、「王位を脅かす危険を消滅させる高官」と考えられるラトゥ・アンガバヤという官位に就いた。またヴィシュヌワルダナは、プランタス川の交通を支配し、プランタス川上中流域とマドゥラ海を結ぶ重要な拠点であるチャング・ロルに城塞を築いた。これは、マジャパヒト時代に重要な港のひとつとなった。ヴィシュヌワルダナは、息子のクルタナガラを1254年に副王というべきユヴァラジャの地位に就けた。研究者によっては、これをクルタナガラの治世の開始と考える者もいる。 1268年、ヴィシュヌワルダナが死去すると、その遺骸は、ワレリ(ウェレリ)に造られたシヴァ神の姿の像の中とブッダの姿をしたジャジャグの寺院に葬られた。ジャジャグの寺院は、マラン市の為替にあるチャンディ・ジャゴである。アヌーシャナータ王の廟であるチャンディ・キダルとともにシンガサリ時代を代表する寺院建築で、王の姿を写したのは本尊である八臂の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音の立像である。この本尊の脇侍には何体かの仏像があったと思われる。 これらの仏像の様式は、北インドの影響を強く受けたものであり、銘文もナーガリー系文字であることから13世紀初頭にゴール朝などのイスラム勢力のベンガル侵入などでインドネシアに避難した仏教僧たちの影響があったものと考えられる。この仏像の様式は、次代のクルタナガラ王の治世にも受け継がれた。 クルタナガラ王の治世と外貨預金王国の滅亡 ヴィシュヌワルダナ王が生涯を全うして亡くなると、1268年からクルタナガラが単独で親政をおこなうことになる。即位したときにシュリー・マハラジャディラジャ・シュリー・クルタナガラの尊称を得た。クルタナガラ王が1269年に発布したサルワダルマ刻文を読むと当時の統治制度をうかがい知ることができる。まず、王を補佐する「上級大臣」ともいうべきマハーマントリとしてラクリャン・イ(マントリ)・ヒノ、ラクリャン・イ(マントリ)・シリカン、ラクリャン・イ(マントリ)・ハルが置かれた。マハーマントリたちの任務は、実務をおこなうラクリャン・マパティ、ラクリャン・ドゥムン、ラクリャン・カヌルハンといった実務をおこなう「大臣」たちに王の命令を通達することであった。これらの大臣たちの下にはタンダ・ラクリャン・リン・パキラキランという官僚集団が置かれた。また、サン・パムグッド(サムグッド)という官職が置かれた。宗教的な事柄については、ダルマデイヤクサリンという仏教指導者が王を助け、サンカダラという尊称を持つマハーブラーマナ(大ブラフマン)が王にしたがっていた。このようなクルタナガラの統治機構は、クディリ王国の制度を踏襲しているが、ラクリャン・カヌルハンに代ってラクリャン・マパティが上位に置かれたことに特徴がある。1275年、クルタナガラは、「パマラユ」(ムラユの出来事)と称してスマトラのムラユ王国に対する遠征をおこなった。これは、マラッカ海峡の海上交易をジャワにとって有利にするための軍事行動であり、クディリ王国がシュリーヴィジャヤを攻撃したような、ジャワの王朝にとっての伝統的な対外政策のひとつであった。